都忘れの囁き
勝手知ったる技局の回廊を潜り抜けて目的のドアを開く。
しかしそこにいると予想した人物の姿が一目に見つからず、一護は首をかしげた。
「あ」
数歩扉から室内に足を進め、漸くその姿をとらえる。
机に突っ伏したその人は、安らかな寝息を立てていた。
「めずらしーこともあるもんだな…………」
寝食を惜しむあまり昏倒してしまうこともある様な人が、仕事もそこそこに惰眠を貪っている。
否、只の居眠りなら惰眠と言って差し支えないだろうが、彼に関して言えば決してそうではないのだろう。
見れば組まれた腕の下に、研究の報告書らしきものが敷かれている。
期日は今日。どうにも内容は全て埋められているようだから、きっとここ数日の睡眠時間は、この紙一枚の為に悉く使い方を変えられてしまったに違いない。
開け放たれた窓から吹き込む麗らかな風と、穏やかな日の光。
蓄積した疲労が睡魔を唆すのも致し方ないことだろう。
くすりと微笑んで、一護は隣室に掛けられていた羽織をそっとその肩に掛けた。
ふと思いついて、窓から身を乗り出す。
*
目を覚ました時、既に日は傾いていて。室内には夕暮れの紅色が満ちていた。
「…………寝てたのか」
普段居眠りをすることなんて滅多にないので、少なからず自分の行動に驚く。
ここ数日まともに眠っていなかったものだから、きっと書類を完成させて息を吐いたとき気も途切れたのだろうと、一先ず自分を納得させた。
少し伸びをして腕を伸ばすと、肩に掛けられた羽織が音も無く滑り落ちた。
持ち出した筈もないそれに暫し混乱するが、机の上に息づいた黒い揚羽蝶に全てを了解する。
『あんまり無理すんなよ。ゆっくり寝てたみたいだから今日はもう帰る』
少し遅れて遠慮がちに、週末にまた訪ねても良いかと問うその声が耳に心地よい。
伝令を吹き込みなおした地獄蝶を送り出し、窓を閉めようとした時ふと桟に置かれた紫色の花に目が止まった。
「…………粋なのかくせえのか、良く分からねえ奴だな」
水を貼った試験管に差し、明かりの下に置く。
薄い花弁は、橙色の白熱灯を透かし不思議な色に輝いていた。
見つめて、ふっと口の端をゆがめる
局長に報告書を提出せんと、穏やかな時間を惜しむ気持ちを脇に避け阿近は自室を後にした。
都忘れの花言葉、王道は「別れ」とか「短い恋」とか、明るいものではないんですが。
並立する「暫しの憩い」が何だか阿近さんらしくて。