渇き眼に濡れた紅
穿界門を潜ると、そこは暗雲の支配する領域へ成り下がっていた。
「あー…………」
現世はとても良く晴れていたのに。
折角咲いた桃の花もしとやかな露に濡れ、土で覆われた大地にも大きな水溜りが出来ていた。
「…………瞬歩なら濡れねえで行けるかな」
しかし瞬歩というのはあくまで走行スピードを早くするものでしかなく、さながら瞬間移動みたく時空の羽間をすり抜けられるような代物ではない。
雨に打たれる時間は格段に少なくなるかもしれないが、袴の裾を雨粒の浸食から守りきることは出来ないだろう。
「…………しっかし、こっちの雨は重いな。やっぱ」
雨の日は、少し気分が沈む。
幼少の頃、あの日の記憶は時が経つにつれ徐々に薄れつつあるけれど、雨天に抱く晴れない感情は一向に霞む気配を見せない。
朝起きてカーテンを開ける。
目の前の硝子窓に雨露が張り付いているだけで、その日一日は本調子を出せない。そんな気がするのだ。
そして、暫く此方へ通うようになって分かったことだが――――現世の雨に比べ、尸魂界に降る雨は何処か"重い"。
性質自体が根本的に異なるせいか(尸魂界のモノは全て霊子で構成されている)、気分の沈みを更に増長させるような。
原因は定かではないけれど、敢えてそれを追求しようと思ったことは無い。
理由が分かった所でこの癖が治る訳でもないだろうから。
(…………報告は明日にして、今日は帰るか)
しかしわざわざ浦原に言って門を開いて貰ったのだ。
別段忙しくしていたようには見えなかったが、それでも連日手間を掛けさせるのは申し訳ない。
ほんの少し、総隊長の元へ出向くだけの僅かな間くらいなら、平素通りを装うのも易いだろう。
しとしとと降り続く雨にオレンジ色の髪をそろりと浸すように、一護は門の外へ一歩踏み出した。
伴い来た地獄蝶は既に何処かへ失せている。
「…………冷て」
季節はもうすぐ春なのに、落ちる雨粒は容赦ない冷たさを孕んでいる。
濡れたそこから自分の身体も氷のように冷たくなって行く気がして、極力濡れないように、なんて考えも何処かへ失せてしまった。
春雨の洗礼を受けること、暫し。
「一護!」
名前が呼ばれるのを感じて振り向くと、濡紅の番傘を差した阿近が立っていた。
「何だ、ずぶ濡れじゃねえか」
「阿近、さん」
ひょいと傘を差し出して、自身の肩が濡れるのも構わず一護へそれを押し付けるその人に、ただ目を見開いて名を呟くしか出来ない。
「ほら、ぼけっとしてねえでさっさと入れ。俺が濡れるだろうが」
一護以上に深い皺を眉間に刻んで、ぐいと袂を引く。
バランスを崩した身体は阿近の方へと傾いで、白い白衣に水の痕を作ってしまった。
「あー…………今日おろしたばっかなんだがな、これ」
「ご、ごめ」
「謝る暇があるならさっさと歩け。替えの死魄装くらい用意してやる」
手を引かれて、よろけながら歩を進める。
少し前を行くその人の袖はやはり雨空に放り出されたままで、少しでもその被害を減らそうと、一護はぴたりと傍に寄り添った。
「何だ?今日は珍しく積極的だな」
「そ、そんなんじゃねえ」
口では否定するけれど、その腕にしがみついているだけで少しだけ凍りついた心が溶けるような、温かな感じがする。
その体表温度は他に並ぶ者の無い程低いのに、触れる部分から熱が伝わってくるようで少し不思議だ。
「お、もうすぐ上がるんじゃねえか?これ」
見上げると、先程まで仕切り無く降り続いていた水滴がまばらに散り始めている。
空の割れ目には明るい日が覗いていて、虹も架かろうかという陽光が降り注ぎ始めていた。
「もうちっと来る時間遅らせりゃ、俺もお前も濡れずに済んだのにな」
「そんなこと察知出来るかよ」
「じゃあ、次は現世から尸魂界の天気が分かる様な機械でも作ってみるか?」
気が付くと沈んでいたはずの心がすっかり、否、万全とまではいかないけれど随分浮上している。
言外に自分の事を気遣ってくれていたのかと漸く思い至り隣を見ると、思いがけず深緋の瞳と視線がぶつかってどうにも気恥かしくなった。
「雨…………あんまり好きじゃねえな」
「そうか?俺は好きだぞ。ぎゃあぎゃあと煩い声を聞かずに済むからな」
「誰の話だ、それ」
「御想像にオマカセシマス」
柄にも無くおどけて言う角の生えた額を少し小突いて、小さな笑みを浮かべる。
雨は、もうすぐ止みそうだ。
15ukを書いているからには一度やっておきたい雨のおはなし。