移り行く世界の片隅で
奇妙に紅い紫陽花はすっかり雨粒の浸食を受けている。
萼は艶やかに濡れて、滲む妖艶な色にそこはかとない想いを馳せていると不意に静寂を掻き乱す水音が耳に届いた。
「雨宿りさせてくんね?」
ひょいと窓から濡れた橙が覗かせる。
茶褐色の目はいつもと比べて少し生気に欠けるものの、平常通りと言って十分差し支えのない位に溌剌とした光を孕んでいて。
阿近は少しほっとしたような、それでいてやはり少し寂しいような、奇妙な心持になった。
「そんな所に居ねえで、いつもみたいに正面から回って入ってくりゃ良いじゃねえか」
「や、今日はホントに時間無くてさ。雨脚マシになったら直ぐ現世に戻らなきゃいけねえんだ」
いやーしかし急にこんな酷くなるとは思わなかった、ふるふる水滴を飛ばしながら苦笑の合間に窓辺で愚痴を零す子供に一先ず手拭いを引掛けた。
黒地に紅い彼岸花の描かれたそれを、いつか子供は己のようだと表現したけれど、未だに阿近はその真意を図れずにいる。
華に例えられる程美しい生き様を晒しているつもりは毛頭ない。
「傘、ねえのか?」
「山本の爺さんが貸すって言ってくれたんだけど、わざわざ返しに行くのも面倒だし断ったんだ。小雨だったからそんな濡れることも無いと思って」
「実際はびしょ濡れだがな」
「想定外だって」
「濡鼠」
「だーかーらー」
「水も滴るなんとやら、か?」
「…………」
流石に揶いすぎたらしい。
顰め面をしてだんまりを決め込んでしまった子供に少し苦笑して、阿近は自室の扉を開けた。
相変わらず一護は灰色の空を睨んでいたけれど、ふと室主の戻って来る気配を感じて振り向く。
同時に頬に温かいものが押し付けられて、驚いて目を見開くと深緋の意地悪な色が此方を見ていた。
「吃驚した」
「身体、冷えてんだろ。流石に蒸し暑いとはいえそんだけ濡れてりゃ風邪も引く」
「お、おう。さんきゅ…………」
差し出された白の湯呑を受け取って礼を言うと、ちらりとこちらに視線を寄こして阿近は自分用に入れて来たらしい黒のそれにそっと口を付ける。
伏せ目がちなその横顔に睫毛が長くて、まるで一枚の絵を見ているようだと胸がざわついた。
「どうした」
「い、いや。何でも…………しっかし、現世も最近雨ばっかでほんと参るんだよな」
「梅雨入りしたんだっけか」
「例年より二週間早いって。そのくせ明けるのはいつもと変わんないんだってさ」
「そりゃまた難儀なこって」
「全くだ」
それでも予期せぬ雨雲は早々に退散を決め込んだらしく、徐々に薄くなる雨枝垂れは雲の切れ間に日の光を受け入れ始めていた。
「あ、虹」
「珍しいな」
うっすらと広がる青空に七色の橋を見つけてたまらず声を上げると、窓枠から乗り出した肩が少し袖に触れて、ぐっしょりと濡れたそれが雨水を裾分けしてしまうのではないかと少し不安になる。
しかし当の本人は一向にそんなことを気にする気配も無く、目を凝らして彼方を見上げていた。
その賢明な様子が子供の用で、普段何かと熟達した態度を見せ付けられている立ち場として少し新鮮な心持がする。
「現世の虹も七色か?」
「え?ああ…………虹っつったら七色だろ」
「海外じゃ三色の所もあるって話だ」
「嘘」
「そんな仕様もねえ嘘ついて誰が得するんだよ」
「…………」
「光の加減で見える色が違うのか、見えてる色は同じでも捉え方が違うのか。何にせよ不思議な話だな」
暫し下らなく取り留めも無い、それで居てとても大切な話をする。
気付かぬうちに時は過ぎて、太陽が少し傾き始めた頃漸く一護は自分の置かれている状況に気がついた。
「って、何話し込んでんだ俺!今日は遊子に早く帰って来いって言われてたのに…………!」
「ああ、俺もいつまでお前が此処に居るのかそろそろ不思議になってたんだ」
「気付いてたんなら言ってくれよ!」
「訊かなかったじゃねえか」
「――――っ、じ、じゃあな!あ、これありがと!」
「おう」
しっとりと濡れた手拭いは暫しその手の中で逡巡されるように弄ばれたが、今はそれよりも妹の機嫌を損ねないことが優先されたようで、阿近の手に木綿と陶器の感触が押し付けられる。
そうして走りゆく背に阿近は思わず声を上げた。
「おい、一護!」
「あー?」
「いや…………なんでもねえ。水溜りで転ぶんじゃねーぞ」
「心配無用だっつーの!」
律義に足を止めくるりと振り返ったその袴裾が未だ絞れる程の雨水を含んでいるのを見て取って、手拭いのことといい相変わらず妙な気の遣い方をする奴だと可笑しくなる。
そのままぞんざいに手を振り送り出してやると、一護は不可解な顔を見せた。
今度は立ち止まることも無く。
一目散に駆け行くそのすっかり乾いた単髪が風に靡いた。
何処となく潮風を思わせるような爽やかなそれに、随分と無沙汰になった遥かな海を心に浮かべる。
蒼の空に映える橙は、海の蒼にもさぞ清涼なコントラストを築くことだろう。
天と地の境界が曖昧になる地平線に甘草色を思い描いて、柄にも無く夏が恋しくなった。
明るい雨の話を。
私は橙と水色のコントラストが好き過ぎるみたいです。
あくまで文章に表す題材として、だけれども。笑