何処までも深く、水溜り。

 瀞霊廷の周りをぐるりと包み込む流魂街。
 その果てに何があるのか、知る者はいないという。
 駆けて、駆けて、駆け抜けると、そこに在るのは見渡す限りの荒野。
 砂だか塵だか分からない、灰がかった粒子の吹き荒ぶ、平原。
 
 「海」
 「が、どうした」
 「阿近さん、海見たことある?」
 「…………あるに決まってんだろ」
 
 突然何を言い出すかと思えば。
 振り返ると少し不思議そうな顔をした一護がそこに居る。
 
 「海、無いよな。尸魂界」
 「ああ…………多分な。ひょっとすると荒野の向こうにあるのかも知れんが」
 「何で調べねえの?荒野のこと」
 「死神には死神の領域ってのがあるんだよ。手を出して良いモンと、出しちゃいけねえモンがな」
 「ふーん?」
 「その顔は理解してねえな」
 「だって俺、死神"代行"だし」
 「…………」
 
 きょとんとした顔で言う一護に一つ深い溜息を落として、阿近は再びデスクに向き直る。
 
 「馬鹿と話してると馬鹿が感染る」
 「ひでえ」
 
 そのまま黙々と作業を続けていると、懲りずに一護が再び口を開くので今度はながらに話を聞いてやることにした。
 
 「なーなー阿近さん」
 「何だ」
 「去年、乱菊さん達海行ってたよな?」
 「ああ、女性死神協会の慰安旅行だったか」
 「現世の海?」
 「らしいな。つーかお前、土産の菓子食ってたじゃねえか」
 「そういえばそうだっけ」
 「何処かは知らんが…………どうにも浦原喜助が一枚噛んでたらしいな」
 「浦原さんが?」
 「四楓院夜一絡みだろう」
 「あ、夜一サンも一緒に行ってたのか」
 「南の方の、無人島だったらしいな」
 「へえ…………まあ、普通の海水浴場にあの集団が現れたら吃驚するよな…………」
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 「…………なー阿近さん」
 「何だ」
 「海、行きたくねえ?」
 「行きたくねえ」
 「そう言わずに」
 
 そこで初めて、阿近はくるりと椅子の背を回して言った。
 
 「お前、俺に海で何をしろっつーんだ」
 「え…………泳いだり?」
 「俺はアウトドアが大嫌いだ」
 「根暗」
 「何とでも言え。俺が外に出るのは大抵それしか方法がねえ時なんだよ。験体の採取とかなあ」
 「…………」
 「大体、現世に出向く労力も時間も惜しい。仕事が山積みなんでな」
 「…………カナヅチ」
 「…………あぁ?」
 「乱菊さんに聞いたぜ、阿近さん泳げねえって」
 「…………何で知ってる、あいつ」
 「こないだ、十三番隊舎の浮竹さんに薬届けに行った時。やちるが――――」
 「――――っ」
 
 俺が意気揚々と口を開いた時の阿近さんの形相ったら無かった。
 よく『技局の鬼』なんて言われる人だけど、あそこまで『鬼』らしい顔を出来る人はそうそういないだろう。
 兎角猛然と人の口を塞いだその様子は酷く焦っていて、俺は自分の目論見が成功する兆しを見た。
 
 「大声で言うんじゃねえよ!誰かに聞かれたらどうすんだ」
 「どうなんの?」
 「そのネタで先幾年俺の休暇は潰される」
 「ふーん」
 「…………まさか、言いふらして回ってねえだろうな」
 「まさか。未だそんなことしてねえよ」
 「…………『未だ』?」
 「阿近さんが俺の言うこと聞いてくれたら、誰にも言わねえでおいてやる」
 「…………何が望みだ」
 「海、行こうぜ?」
 「……………………」
 
 しばしの沈黙。
 脳内で荒ぶる葛藤が繰り広げられるのが手に取るように分かったが、やがて観念したのか阿近さんはこくりと頷いた。
 
 「…………仕方ねえな」
 「やった!」
 「日付、時刻、場所。予定は全部お前が組めよ」
 「分かってるって。つーか別に、阿近さんと出掛けられるんなら何処でも良いし」
 「海行きたいんじゃねえのかよ」
 「阿近さんとどっか行きたいんだよ」
 「…………おかしな奴だ」
 
 幾ら自分が彼を休憩に誘っても、仕事の手をとめこそすれ技局から足を踏み出してくれたことはない。
 そして例え屋外での逢瀬が叶ったところで、瀞霊廷内に居たのではろくに腰を落ち着けることも出来ないのは自明の理だ。
 奢る訳ではないが己は此方で酷く構われる身だし、きっと阿近さんとて普段外出しない分、周りに放っておかれない事は自分に等しいのだろうと思う。
 ならば現世で、と考えた訳だが。
 
 「…………しかし」
 「え?」
 「お前、その話…………松本から聞いたっつったな?」
 「え、ああ…………そうだけど」
 「ってことは、幾らお前に口止めしたところでまるっきり無意味じゃないのか」
 「あ」
 「…………」
 「…………」
 「取り合えず、徳利最中でも持ってくか」
 「…………何もしないよりマシなんじゃねえ?」
 「…………」
 「あ、でもあんまり言い過ぎると藪蛇になるかもよ?」
 「あ?」
 「乱菊さんの事だから、もう忘れてるかも」
 「…………」
 「…………俺、さりげなく聞いて来ようか?」
 「…………頼む」
 「へいへいっと」
 
 ひょいと身軽に窓の外へ身を投げた一護の背を目で追って、再び阿近は重い息を吐きだした。
 
 「…………借り、また増えちまったな」
 
 現世の暑さを思うと途端にどっと汗が滑り落ちる気がしたが、まあ偶には良いかと、休日の過ごし方を考えることにする。



 やちるに池の中へ突き飛ばされた阿近さん。