薄暗い廊下を進んだ先にある手水場で、曇った鏡を除き込む。
 襟元を掻き閉めても散った赤い華は主張をやめなくて、さて今日は穿界門の先に待つ浦原をどんな良い訳で躱わそうかと瞬時意識を巡らせた。
 白哉のように襟巻を撒いてみようと考えたこともあるが、それでは余りにもあからさま過ぎると思いやめておく。
 寧ろ今更そんなことを考えるのは無意味に近くて、気怠さを残した四肢を引き摺りながら仮眠室の扉を潜った。
 
 太陽の燦々と降り注ぐ真昼間から、少し埃が立ち込めたこの部屋で。
 彼とそういう関係になってから決して日は浅くない。
 毎度毎度と言う訳ではないが、それでもかなりの頻度で、定例報告に訪れた時は此処を訪れる。
 訪れればほぼ決まって、饐えた様な香りのするこの部屋に引きずり込まれて。
 失った気を取り戻して、肌蹴た合わせを直し斬魄刀を背負う首筋には赤い華が鏤められているのだ。
 
 今となっては切欠なんて思いだせない。
 けれどきっと、始まりは無理強いではなくて、誘うようなその紅い目にひらりひらりと吸い寄せられてしまっただけなのだと感じている。
 花に誘われる蝶のように。
 その影に潜む鋭い鋏と、花弁の白さに紛れた粘つく糸には気付かずに。
 一度滑らかな表面に足を降ろせば、絡んだ糸は解けなくて、ずるずると抱かれ続けて幾時、数えることさえ馬鹿らしくなってしまった。
 
 否、こうした表現ではまるで自分が嫌々彼に抱かれているように思われてしまうかもしれない。
 確かに、客観的文章であらわせば強ちその印象は外れていないのだけれど、そうであっても自分がそこに幸せを感じていることに違いは無いのだ。
 
 息が止まるほどに執拗な口付けも。
 首筋を舐める舌の動きも。
 突起に噛みつく鋭い歯も。
 扱く長い指も、添わす鈍い痛みも、弾ける青い香りも。
 
 清潔であるとはお世辞にも言い難い、光も無い鍵の掛かった閉鎖空間に麝香の甘さが立ち込めるだけで、予期される次の演出を全身が待ちわびて先走りが零れる。
 丁寧にそれを舐め取る仕草は未だに羞恥無しに目を当てられるものでは無かったが、それでも快楽に身体が震えるのもまた事実で。
 暗い炎を灯した深緋の瞳がその数瞬でも自分だけを見ているのだと思う度、言いようのない幸福に包まれる。
 
 罠にかかったようにもがきながら、存分に出せない声を必死に押さえて、彼を満たそうとする。
 思い出したように見せる余裕のある笑みがどうしても忘れられず、その僅かな表情筋がこれまでに一体幾人を落として来たのかは考えないようにしながら、只管に色を重ねるだけの、僅かな時間。
 耳元に落とされる、糸を引きそうなほどに低いテノールに全てを感じながら、堕ちるかのように声を上げる。
 
 そこに愛は無い。
 けれど辛さを感じないように、痛みだけを覚えるように、細い糸に縋りつくかの如く目を閉じる。
 手繰り寄せられた羽根が?がれるまで、その名を口にしていたいと心から思う。
 
 
 落ちた薄紙の紅が貪欲な瞳を思わせて、背筋に氷が滑り落ちる感覚を覚えた。