Please Call Me

 一番得意なのは現国、苦手なのは化学。
 そんなことを言ったのはいったいどの口だっただろうか。

 試験期間が終わって早一週間。
 学年毎の総合成績と教科別成績が一斉に廊下に張り出されて、一護は柄にも無く結果を前に絶句することとなる。


 「先生!!」
 「何だ、騒々しい」

 化学準備室の扉をがらりと盛大に明け放って、大声で呼んだところ非常に迷惑そうな顔で白衣の教師は此方に目を向けた。

 「何だ、じゃねえよ何だ、じゃ。こっちこそ何だよこの順位!?」

 ばっ、と掲げられた紙をしげしげと覗き込むと、それはどうやら化学の中間考査順位らしい。

 「これがどうした」
 「だあああっ、だから!何で俺が一番なんだよ!?」

 総合成績は可もなく不可もなく、取り合えず学年上位10番台をキープした。得意と自負する現国もまずまずの結果。
 普段の一護なら、順位のチェック(と言っても進んで行うのではなく、大抵は恋次や啓吾に引っ張られて見に行く)はそこまででうち止めることだ。
 だがしかし、今回はそうもいかなかった。脇から雨竜の差すような視線が飛んできたからである。
 その正面にあるのは、化学の順位提示表。

 「何で、っつわれても…………お前が頑張ったんじゃねえの?」
 「俺は全教科のなかで化学が一番苦手なんだよ!あんたも知ってるだろ?いつも化学だけ平均ギリギリなのに、なんでいきなりこんな順位跳ねあがってんだ!?」

 別に僕は学年首席を取る為に勉強している訳ではないけれど、という前置きの後にびしりと突き付けられた順位表。
 心なしか、雨竜の霊圧が重かった気がする。
 きっと気のせいではないだろう。井上や国枝ならともかく、俺に負けて二位だっていうんだから。

 「…………何が言いたい」
 「…………あんた、まさかとは思うが何かしてねえだろうな」
 「馬鹿野郎、俺がお前に満点取らせて何の得がある」
 「…………」

 あるじゃねえか、と一護は胸中で毒づく。阿近はそんな一護を不思議そうな様子で見やっていた。


 高校も二学年に進級した春、顔なじみの青年が教師として空座第一高校に赴任してきたのは未だ記憶に新しい。
 それからというもの、一護は時間の許す限り化学準備室に入り浸り、沢山の話をした。

 そんな中、不意に出た科白。

 「そういやお前…………前、学校じゃ何かと言われないようにそれなりに勉強してるっつってたよな」
 「あ?そりゃまあ、それなりにしてるけど」
 「学年何位だ?」
 「ええー…………こないだの期末試験は、確か16位、だったかな」
 「そうか」

 短く答えると、おもむろに引き出しを漁り何かを取り出した。
 目の前に置かれたそれを見て、一護の眉間の皺は深くなる。

 「じゃあ何だ、このプリントは」

 それは先日課題としてクラスに課された練習用のプリントだった。化学式がびっしりと羅列されたそれに、頭を抱えたのを覚えている。

 「こんな初歩的な問題も間違う、それで16位か?」
 「…………よ」
 「あ?」
 「理系科目、っつーか化学だけすげー苦手なんだよ」

 苦虫を百匹は噛み潰した様な一護を前に、はて、と阿近は首をかしげる。
 生憎この高校には理系文系に分かれるなどという高尚な制度は備わっていないので、理系科目が苦手な生徒もその苦しみから逃れることは出来ない。
 それでも文系科目を好む生徒の為に、理科は生物物理化学の三分野にわたり展開されているはずだ。
 生物はほぼ暗記科目と言って過言ではないから、内容はともかく学習のプロセスとしては文系科目に限りなく近い。
 理系科目が苦手というなら、当然に物理は選択肢から外される。しかしそこで何故あえて生物を選ばず化学を採ったのか。

 「だって…………ニガテなんだ、涅センセ」
 「……………成程」

 ここの生物教師・涅マユリはその方面に置いてかなり名の知れた科学者だ。
 何故高校教諭などしているのかは知らないが、ひょんなことから赴任前よりの知り合いであった阿近はその人柄を熟知とまでいかずとも把握している。

 端的に言えば、変人。

 その授業は教科書など一切用いない、只管解剖が繰替えされるだけのものと聞くし、何より授業をとったが最後、生徒自身が何の実験台にされるか分からない。
 この空座第一高校において、生物とは名目上開講されてはいるものの実質はほぼ閉講に近いらしい。
 大抵の人に対して苦手意識なんて持たない一護が此処まで言うのだ。
 脚色された噂でも何でもなくて、きっとそれは事実なのだろう。

 それで、苦肉の策の化学な訳か。

 「良いじゃねえか。教えてやるから克服しろよ」
 「いや…………多分ムリ」

 他の教科は気合いで何とかなるんだけどよ、この化学式っつーのにどーも馴染めないんだ、と零す。
 そんな一護に、阿近は紫煙を燻らせながら言ったのだった。

 「そこまで断言するなら、一つ賭けようじゃねえか」

 俺がお前に化学を教える。
 それでお前の成績が上がったら、俺の言うことを一つ聞くこと。上がらなかったら俺がお前の言うことを聞いてやる。

 結果は見えてる、と言い返した一護に、じゃあお前が学年一番取ったら何言われても言うこと聞けよ?と、そのとき阿近は酷く楽しげに返したのだった。



 そして、現在に至る。
 勿論一護とて成績が伸びたのは嬉しい。苦手教科を克服出来たのも有難い話だ。
 ただ、春からのニ、三カ月約束通り教えを乞うては居たものの、一向に出来るようになった気がしなかったのも事実で。
 実際テスト問題を解いているときも他教科程手ごたえを感じられなかったのである。

 ともあれ、阿近があの約束を覚えていないなら自分の身は安全だ。
 阿近が試験結果に何か細工をしたのではないかと言う猜疑心もそこから発生したものだった。
 当然のことながら、本気で疑いにかかった訳ではない。
 完成された大人の態度の端々にらしくない幼稚さも垣間見える人だが、流石にそこまで私欲に走るような行動は取らないだろう。

 「いや、なら良いんだ…………悪かったな、ヘンなこと言って」

 取り合えず自分を納得させて、椅子からがたりと立ち上がる。
 未だに現実が信じられない気分で、教室に行ったらまた石田に睨まれるんだろうなあ、なんて思いながらドアに手をかけたその時。

 「…………そういや黒崎、お前」

 ぞくりと、何故か嫌な予感。
 そろりと背後を顧みると、案の定口の端に素敵な笑みを浮かべた阿近が、あのときと同じように紫煙を燻らし立っていた。

 「俺、お前と約束してたよなあ?成績が上がりゃお前が俺の言うことを聞く、上がらなきゃ俺がお前の言うことを聞く。なあ?」
 「う」
 「おら、忘れたとは言わせねえぞ」

 この人、絶対確信犯だ。忘れたふりも全部嘘だ。
 とはいえ、約束は約束。無碍にすることは一護の生真面目な気質が許さない。
 しぶしぶといった体で阿近の傍まで戻ると、途端ぎゅっとその細腕に抱え込まれた。

 「せんせ、い?」
 「で、学年首席取ったらどんな言うことでも聞いてくれるんだったよなあ…………?」

 悪いがそちらの約束を了承した覚えは無い。
 しかし抱き込まれ耳元で囁かれては、理性が対抗の炎を燃やした処で膝が折れそうになるのを支えることも出来ないこの現状。

 「――――ッ、何だよ、して欲しいことがあるならさっさと言えよっ」
 「ふん、じゃあ言ってやる」

 これから五分、素直に俺に従え。

 何をする気だと問おうとして口を開きかけたのと、何故かドアへ向かった阿近が此方へ戻ってきてその口を塞いだのは同時だった。
 振り向きざまのかしゃん、という音は、どうやらドアに錠が下された音だったらしい。

 ぬるい温度、艶かしい舌の感触。久しぶりに味わうそれに一護は酷く驚き、抵抗を試みるが、その体に回された腕が揺らぐ気配もない。
 やがて腰に回された手がしなやかにそのラインをなぞると、抗う気力すら失せてただその胸に身を委ねた。

 長い沈黙の後、自分の唇が相手のそれと銀糸を伴い離れる。
 息も絶え絶えになりながら崩れ落ちそうになる一護を、阿近はそっと抱き寄せる。

 「…………ぅ」
 「悪い、大丈夫か?」
 「…………んた、学校ではしねえって」
 「は、悪いな。何せ試験期間中・後含めて二週間、まともにお前と外で顔合わせられなかったからよ」

 お前が足りなかったんだ。
 意味ありげに呟かれると、一護としては目尻を真っ赤に染める以外出来ることも無い。

 「…………あと一分あるな」
 「…………まだ何かさせる気かよ」

 てめえそれでも教師か、と、うっすらと生理的な涙を湛えた上目遣いで凄まれた所で何も迫力は無いのだけれど、そこは一護の矜持の為に黙っておいてやる。
 そうだなあ、と呟いて、したり顔で阿近は言った。

 「呼べよ、俺のこと」

 先生、じゃなくて、ちゃんと名前で。



 学校では、阿近さんなんて呼び方せず他人行儀に先生、って呼べば良い。
 そして阿近さんはそれを面白くなく感じてると良い。