Good-Morning, My Honey ?

 「傘も差さねえで何やってんだ、黒崎」
 
 急に雨に降られて。
 駅から走り帰る途中、ばったりと傘を差した阿近さんに鉢合わせて。
 
 「お前、天気予報見なかったのか?」
 
 降水確率、午前午後共に九十五パーセント。
 特に夜は本降りとなるので、お出かけの際は傘をお忘れなく。
 
 朝のニュースでお姉さんが太陽にも負けない煌びやかな笑顔で告げていたような気もする。
 しかし珍しい寝坊のせいでドタバタとしていた頭に、そんな在り来たりな台詞は刻みつけられなかった。
 
 「それにしても、駅で傘か何か買えば良いだろう」
 「家、こっからすぐだから。雨脚も未だそんなに酷くねえし…………大丈夫だと思って」
 「馬鹿言え。お前の思考回路じゃ、全速力で十数分の距離は"すぐ"の範疇なのか?」
 「う」
 
 はーっと溜息をついて、阿近は少し柳眉を下げて言った。
 
 「俺の家」
 「え?」
 「そこだから。取り合えず寄ってけ。そのままじゃ風邪引くだろ」
 
 
 *
 
 
 「好きなように使え。タオルと着替えは用意しておいてやる」
 
 がさがさと箪笥の引き出しを引っ張りながら言う阿近さんに一先ず御礼を言って、洗面所の扉を閉めた。
 阿近さんの家へ来たのはこれが初めてで、少し――――ほんの少し、緊張する。
 どうやら一人暮らしのようだが、その部屋の広さは住人の人数に釣り合わない程度には広い。
 廊下を歩いている時、リビングに通ずる物以外にも幾つか重厚な扉を見掛けた。
 掃除は行き届いていて、目の前にある姿見も曇り無く磨きあげられている。
 
 …………化準のあの雑然とした空気が嘘みたいだ。
 オンオフの切り替えが出来ているのだ、と言えばそれまでだけれど。
 
 「黒崎?」
 
 ドア越しに呼び掛けられて、一護は文字通り飛び上がった。
 
 「何だ、何処か分からねえとこあるか?」
 「や…………だ、大丈夫。ぼーっとしてた」
 「ったく、早く入れ。後がつかえてる」
 
 そう言われて初めて、駅から此処へ連れて来て貰う時、傘の半分を貸して貰ったせいでその半身が雨に濡れていたことを思い出す。
 自分のせいで阿近さんに風邪をひかせては敵わない。
 散乱した思考を一先ず隅に追いやって、身体を温めることに専念することとする。
 最初の一言が、まるで補講中のそれのように思えて少し可笑しかったが、それも取り合えず後に考えることにした。
 
 
 *
 
 
 「親父さんに電話繋がったか?」
 「いや…………っかしいな、流石に未だ寝てねえと思うんだけど」
 
 そもそも高校生にもなって親に「遅くなる」なんていう電話を入れるのもおかしな話だ。
 しかし幾ら放任とはいえ、夜も更けて帰るとなると翌朝遊子が何を言うか知れない。
 というか、妄想逞しい親父に何を言われるか分からない。きっと面倒臭いことになる。
 そう思って阿近さんから携帯電話を借りたのだけれど。
 
 「今日出掛けるっつってたっけな…………?」
 
 そういえば昨日の夜、遊子から「明日は夏梨ちゃんと一緒にお友達の家に泊って来るから!」なんていう言葉を聞いたような。
 親父も「明日は古い友達と飲みに行ってくるから」なんて言って浮かれていた、ような。
 
 「…………一人かよ、俺」
 「なんだそりゃ」
 
 何だか拍子抜けしてぽつりと呟くと、両手に持ったマグカップの片方を渡してくれながら、阿近さんが胡乱気な疑問符を投げた。
 
 
 *
 
 
 「黒崎ー、お前、こんなとこで寝てたら風邪引くぞ」
 
 持ち帰った採点業務を一通り終わらせたのか、赤ペンの音が止まる。
 寝てはいなかったのだけれど、見るともなしにテレビ画面を眺めている内に少しうつらうつらとしてしまったらしい。
 
 「何だ、もうこんな時間か」
 
 一つのことに没頭すると時間すら見えなくなる。彼の癖だ。
 時計の針はとうに子の刻を回っていた。
 
 「あー…………帰らねえと。親父に何言われるか分かんねえし」
 「帰るっつってもお前、外未だ雨降ってんぞ?」
 「傘貸して?」
 「そういう問題じゃねえだろ…………男とはいえ、流石にこんな時間に生徒を一人で放りだせるかよ」
 「表通り出てタクシーでも拾うから」
 「あーもう、これだから餓鬼は」
 
 がしがしと頭を掻いて阿近さんが言った。
 
 「明日は日曜だ、特に用事が無いなら泊ってけ」
 
 そう言って徐に隣室へ入ったかと思うと、一抱えの掛け布団を持って出て来た。
 
 「ほら、これ使え」
 「先生は?」
 「俺はいい」
 「え、風邪引くぜ?」
 「何だ、なら一緒に寝て良いのか」
 「良い訳あるか」
 「生憎一人暮らしなもんでな、他の奴が泊まりに来たこともねえ。布団なんざ一組しかねえよ」
 「じゃあ先生が使えば良いだろ。俺はソファ貸してくれたら良いから」
 「馬鹿、此処まで来て風邪引かれちゃこっちの方が堪らねえよ」
 
 ばさりと布団を頭の上から被せられて、もぞもぞと脱出を試みるうちぱちりと電灯が消される音がする。
 
 「朝まで確り寝てろ。俺は隣の部屋で仕事してるから。何かあったら呼べよ」
 「子供扱いすんな」
 「フン…………お休み、黒崎」
 「…………お、おう。お休み、先生」
 
 
 *
 
 
 翌朝、朝日が眩しくて目を覚ますと、壁掛け時計は未だ早い時間を差していた。
 顔を洗おうと洗面台を借りると、丁度正面の扉から少し顔の青い阿近さんが出てくる。
 
 「徹夜かよ?」
 「いや、少し寝たが…………熱中すると寝食忘れる性質でな」
 「冗談に聞こえねえよ」
 
 しゃこしゃこと歯ブラシを動かす横で、顔に付いた水滴をタオルで拭う。
 口を濯ぐ動作に伴って上下に動かされる黒髪が、ふと覚えのある香りを運んだ。
 
 (あれ、これ…………)
 
 
 ミントの強い、シャンプーの香り。
 普段自分が使っている物とは少し違う、大人びたそれ。
 
 ふと見下ろすタオルからも同じ香りが漂っているのに気付いて。
 
 (同じシャンプーの香り、とか)
 
 気付いた瞬間何故か猛烈に恥ずかしくなって、ぼふりとタオルに顔を埋めた。
 
 「如何した、黒崎」
 「ど、どうもしねーよっ」
 
 改めて此処が阿近さんの部屋なんだと思い知らされる。
 借りた部屋着にも慣れない香りが染みついていて、それは彼の白衣に纏われるものと同じで。
 
 「と、泊めて貰ったんだし、朝飯くらい作ってやる」
 「何だ、お前料理なんて出来るのか?」
 
 心底意外だというようなその小憎たらしい表情も如何してか今は直視しがたい。
 無意識に耳を染めながらふいと視線を反して気を紛らわすこととする。



 お互いに自覚する前。
 阿近さんは真顔で冗談とか言いそうだなーと。
 そして一護は真偽の判別付かなくていつも振り回されてると良い。
 結局書きたかったのはシャンプーの香り、なくだりだけだったり。