Aigre-doux
「阿近さん――――!起きろ――――!朝――――!」
階下から一護の呼ぶ声がする。
未だ閉められたままのカーテンの隙間から僅かに差し込む朝焼けが眩しい。
枕元の携帯電話を開けば、時刻は出勤まで一時間といった所だった。
「もう、少し…………」
目覚めかけた思考にもう一度蓋をして、固く瞑った目を布団の中に埋める。
今日の朝食当番は一護だったのか。
ほんのりとコーヒーが香ばしく香り、このまま再び眠ってしまうのは何だか惜しいような気がした、
しかしそれでも、低血圧の阿近が睡眠を放り投げてその誘いに気を惑わすことは無い。
「起きてる?阿近さん」
「んー…………」
こんこん、とドアを叩く音がする。
呼んでも起きた気配はおろか、返事さえ届けない阿近に業を煮やしたのだろうか。
入るぞー、と言って一護ががらりと戸を開けた。
「ほら阿近さん。起きた起きた。朝飯冷めちまう」
「…………一護?」
「おう。おはよ」
「…………寒い」
「そりゃ、春だっつっても未だ四月頭だしな…………って、おい?!」
おおう、と叫び声を上げる一護を無理に布団へ引っ張り込む。
春とはいえまだまだ冷え込む四月の朝。廊下へ通ずる開けはなされた扉が憎い。
「あーこーんーさーんー!」
「っるせえなあ…………ちったあ大人しくしてろ」
往生際悪くじたじたと暴れる額に口づけを一つ。
途端に水を得た魚のように大人しくなった一護をこれ幸いと抱えなおして、三度現実を逃避しようとする、が。
「き、今日は駄目だからな!俺、入学式だぞ!!遅れたらどうすんだっ」
「安心しろ、俺が生涯責任取ってやる」
「――――っ、そう言う問題じゃなくて!」
漸く言うことを聞いたかと思ったのに、次の行動はその真逆で。
勢いよく跳ねのけられた布団と忍びこむ冷気に、否が応にも意識は覚醒してしまった。
「ほら、起きて!」
カーテンまでもがばさりと引かれ、朝の眩しい光が室内を満たす。
以前としてベッドに腰かけたままの阿近の肩を、一護がゆすった。
*
「朝からまあ手の込んだことだな、毎度ながら」
「うるせえ。俺の家では毎日これが普通なんだよ」
阿近は基本、朝食をまともに摂らない。
胃の中に入れるのは精々、ブラックコーヒーに食パン一切れといった具合である。
ところが一護が来てからというもの、彼が朝食の当番に当たる度机の上にはサラダだのハムエッグだの典型的な朝御飯が展開されるものだから、自然それらを摂取する習慣がついてしまった。
机に付くまでは食欲なんて全く感じないのだけれど、毎度毎度気付けば皿は空になっているのだから不思議なものだ。
「今日、阿近さん何時くらいに仕事終わりそう?」
「そうだな…………まあ、終業時間なんて有ってねえようなもんだからな。立て込んでる調査もねえし、帰ろうと思えば何時にでも帰れるが?」
「俺、午前中に式があって、午後はガイダンスでさ。多分三時くらいには学校出られると思うんだ」
さっき冷蔵庫の中見たらまともなもん無かったから。
阿近さんが帰り遅いなら、学校終わった後で何か買ってこようと思うんだけど何が良い?
「…………俺も行く」
「一緒に行ってくれんのか?」
「どうせ俺の大学の前通って帰るんだろ。だったら、学校出るときにでも連絡入れろよ。お前が来るくらいの時間に切り上げて帰れるようにするから」
「無理すんなよ?」
「してねえよ」
「そっか。じゃあ頼む」
にか、と笑う顔が、時計を見て突如血相を変えた。
「やっべもうこんな時間?!」
「…………食器は洗っといてやるから。早く着がえて歯ァ磨いて来い」
*
「お前のスーツ姿ほど見慣れねえもんもねえなあ」
「う、うるせえ」
漆黒の洒落たスーツにオレンジの髪が鮮やかに映える。
高校を卒業して未だ一ヶ月かそこらなのに、着るものが変わるだけでここまで印象も変わるのかと驚いた。
「じゃ、行ってくるから」
「忘れもん」
「え?」
振り向いた唇に口付けを落としてやると、ぽかんと呆けた面を見せる。
「行ってらっしゃいのキス」
「…………ふ、ふざけんな!」
顔を真っ赤にしてくるりと踵を返すが、一瞬躊躇した後もう一度振り返って、当て付けとばかりに唇を宛がい返す。
「や、やられるだけじゃ不公平だからな!」
「…………本当に面白い奴だな、お前は」
「うるせえ!」
がおうと吠え、今度こそ玄関扉を開こうとする背に呼びかけた。
「知らねえ奴について行くんじゃねえぞ」
「俺は幾つの子供だ?!」
「ふん…………ま、頑張れよ」
「…………おう」
頬に未だ赤みを残したまま、それでも期待に満ちた顔で笑う子供が酷く愛しくて、自ずと阿近にも笑顔が宿る。
ぱたりと音を立てて閉まる扉に背を向けて、一体何処の新婚家庭だと満更でもなく感想を抱いた。
「…………これが、幸せってもんなんだろうな」
自嘲気味に、一言。
aigre-doux…甘酸っぱい
砂糖を吐きそうなくらい甘いのが一度描いてみたかった。