L'autre cote du ciel noir

 余りに些細なことで、原因はもう覚えてすらいないのだけれど。
 兎角阿近の何かが無性に気に入らなくて――――一緒に暮らすようになって、初めての仲違いをしてしまった。
 
 部屋の灯りを点けていないから、日の落ちた室内は薄闇に満ちている。
 けれど気分の沈みに準ずるように濃度を増していく闇を打ち消す気にもなれず。
 月の無い空が生む鈍暗を享受し光の領域が侵されて行くのを、背にした大窓越に感じるとはなく感じていた。
 
 朝に少しの口論をしてから、一護は部屋の外へ出ていない。
 扉には鍵をかけたまま、二度程のノックも無視する形で只管沈黙を貫いている。
 
 抱えた膝には涙の痕、なんて難しい時期の女の子のような可愛らしいことは無い。
 けれど内面は相応に荒れていて。
 
 『――――――――!』
 
 あの時言ってしまった言葉を反芻する。
 投げつけられた当人は普段と何ら変わらない無表情を装っていたけれど、その瞳が雄弁に悲哀と衝撃を映していた。
 己の浅薄が彼の人を傷つけてしまったとすぐに気がついた。
 けれど今更撤回することも出来なくて、そのまま階上へ駆けあがってしまったのである。
 
 あの時の彼は、表面こそ滑らかなもののその実酷い顔をしていた。
 しかしそういう自分こそ、きっと筆舌に尽くしがたく醜い顔をしていたに違いない。
 
 「俺、最低だ…………」
 
 感情の揺れを理不尽に彼へぶつけてしまった自分が情けない。
 優しいあの人にあんな顔をさせてしまった自分が更に情けない。
 そして、その行いを悔いながらやはり素直に謝りに行けもしない自分が、酷く情けない。
 
 さあ、こんな風にうじうじと悩むのはさっさとやめて、立ち上がり鍵を開け、隣室か階下にいるであろう彼に詫びに行こう。
 ごめんなさいと、一言そう言えば優しい彼はきっと許してくれるに違いない。
 否、もしかすると怒ってすらいないかもしれない…………年端もいかぬ子供の戯言だと、気にも留めていないかも。
 
 頭では分かっている。
 けれど身体が言うことを聞かない。
 立ち上がろうとするのに足は立たなくて、顔を上げようとするのに首は動かない。
 
 しんとした闇に自分の輪郭も溶けて行くような、そんな心持がした。
 気がつけば随分と夜も更けて、街路の電灯が眩しい頃合になっている。
 
 「一護」
 
 ふと、声が聞こえた。
 扉の向こうだろうか。しかしそれにしては冒頭に響く筈のノックの硬音がしなかった。
 
 「一護」
 
 再び声がした。背を預ける、窓硝子の向こうから。
 何を考える間もなく振り向くと、開かれたカーテンの向こうに見える冷えたバルコニーにその人の影が見えた。
 
 「もう夜だぞ…………カーテンくらい閉めろよ」
 
 哀切を含んだ笑みを浮かべているであろう、そんな声音で阿近は静かに言う。
 傷ついた目の前の子どもを刺激しない様、努めて静かに。
 
 「晩飯、リビングのテーブルに置いてあるからな。朝から何も食ってないんだ、流石に腹減ってるだろ?」
 「…………」
 「ま、俺の顔が見たくねえのは分かってるから。明日の朝までは取り合えず部屋に籠ってるからよ、安心して下降りても良いぞ」
 
 じゃ、おやすみ。
 そう言って自室へ戻ろうとする気配がする。からりと窓を開ける音が聞こえて、堪らず一護は自室の硝子戸を引いて寒空の下へ飛び出した。
 
 「阿近さんっ」
 
 並びの二部屋。バルコニーで繋がっている。
 隣室の硝子戸の前にその人が未だ立ち止まっているのを見て、一護は堪らず正面から抱きついた。
 
 「おわっ」
 
 短距離からの突進に勢いを殺しきれず、阿近は押し倒される形となる。
 何とか後手に付いた片手でバランスを取って、空いた手で取り合えずそのオレンジ色の髪を梳いてやった。
 
 「俺…………酷いこと言った」
 
 肩口に顔を埋めたまま、今にも泣きそうな声音で呟く一護。
 返事の代わりに触れる手を少し強く頭へ押し付けた。
 
 「ごめん…………」
 「今更だろ。気にしてねえよ」
 
 俺の何処かがお前の癇に障って、気付かない俺にお前がキレた。
 同じ屋根の下に住んでるんだ、偶にはそう言うこともあるさ。
 
 阿近の苦笑するような声に、どうにも無性に泣きたくなったがそこは我慢する。
 くっと顎を引いてその目を見ると、深緋の瞳はやはり少し寂しげな色を乗せたまま、静かに微笑んでいた。
 
 「ほら、何時までもそんな顔してるな」
 「――――阿近さんは、優しすぎるんだ」
 「…………そんなこと言うのはお前くらいだよ」
 
 す、と唇を掠めて、阿近が立ち上がる。
 
 「悪く思うなら、さっさと立って晩飯食って、風呂入って来い」
 「…………ごめん」
 「だから、謝るなっつってんだろ?今日のところは添い寝で許してやるからよ」
 「――――!」
 
 ばっと顔を上げると、そこにはいつものように少し小意気味良く釣りあげられた口の端。
 巡らない思考回路で悩み続けていた自分が馬鹿みたいに思えて、随分と久々に笑みを浮かべたような気がした。



 L'autre cote du ciel noir … 闇空の向こう側
 阿近さんは大人。